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避暑山荘ー中国世界の縮景
蘇州から頤和園の蘇州街へと飛びましたが、さらに350kmほど北上して、承徳という街にある、もうひとつの清代の庭園「避暑山荘」を訪ねてみましょう。こちらは清の第四代皇帝、康熙帝によって造営されたものです。康熙帝は、この避暑山荘をつくる以前から、この地を毎夏訪れてモンゴル族のようなテント生活と狩猟などをしていました。そして1703年に、この夏の離宮(当初は「熱河離宮」と称した)をつくり、モンゴル諸王やイギリスなど外国からの朝貢使節などとも接見し、清朝の首都が瀋陽から北京に遷都されて以降、夏の間の臨時の首都のごとく、本格的な執務を行うようになります。庭園部分(離宮の敷地)だけで頤和園の2倍の面積、540haを擁し、その中が宮殿区と苑景区に別れ、宮殿区は執務を行う場所、苑景区は、湖区や草原区、山岳区などに更に分かれた広大な庭園となっています。更に、庭園の外にも、外八廟と呼ばれる主にチベット仏教寺院が12社ほども散在し、またさらにその外側は燕山山脈という山が取り囲み、そこにも奇峰異石や洞窟などの自然景観が展開しています。このように、承徳は「山荘ー都市ー自然」が一体化して、ひとつの庭園になっていてるといった構成で見ることが出来ます。

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さて、前回の頤和園で見たように、庭園には、本質的に、どこか遠い場所の要素を持って来て、別世界の雰囲気をつくったり、「ごっこ」空間にする、という側面があります。これは、実際に自分が移動をして(つまり色々な所に旅行をして)、全く別の場所の日常が非日常として体験されている感覚を、再度自分の日常として昇華させるような行為であると思います。ここ避暑山荘においても、湖水区と呼ばれるエリアは、頤和園と同じ、江南地方の景色を模した造園、蘇州の寒山寺、杭州の武陵寺、六和塔などを模した建造物があり、外八廟では、チベットのポタラ宮を模した寺院が建てられています。庭園の外壁は、万里の長城さながらの城壁もあります。ここでは、ポテンシャルとして、首都から適度に遠く、避暑に相応しい場所で、北方民族の欲求を満たす平原と草原、中国の仙人思想にも通ずる自然奇景などが備わった場所で、それでもなお足りない要素を造園し、建築したとことによって、まさに世界(中国)のすべてを縮図として手中に収めたような究極の「都市ー庭園」をつくったと言えます。

また、康熙帝は、1710年から宮殿が完成するにあたり、「熱河離宮」から「避暑山荘」と名前を改めると同時に、この山荘の中に「康熙三十六景」なる風景を定めています。この「皇帝が定める風景」という構図は、とても興味深いものがあります。ひとつには、風景そのものを皇帝が「美しい」と定める政治的な意図、「36」という数字の持つ、中国古来の道教に由来する仙人の住処との関連。こうして風景がある特定に枠組みに沿って、整備されて行くことになります。全てを統治する皇帝は、様々な建造物を建てると同時に、それを自らの権限において、その意義を正当化する。こうして、「建築」「文化」「自然」が、それらを束ねる「風景」とともに、政治的に編み直されて行く過程が見えます。これは皇帝が変わって乾隆帝の時代には、新たに「乾隆三十六景」というものに再定位されています。そう、気づかれたかと思いますが、日本の「富嶽三十六景」などの「36」という数字の起源もここにあります。

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現在の山荘内に関しては、保存状態の差もあるでしょうが、頤和園と比べるととても質素で、建築などの構造物が大きく目立つこともなく、水、草原が、一見、自然にあるだけの空間にみえます(ただし、湖などは人工的に造られたものです)。江南の風景を模したとされるエリアは、屋根などの造りにその影響は見えますが、さほど徹底している感じもうけません。水際の遊びのデザインでも、頤和園の方が遙かに工夫が凝らされています。どちらかと言えば、江南園林的要素は、ひとつの流行、もしくは中国の代表的な要素として、取り入れられたに過ぎず、康熙帝は、むしろ純粋に狩猟や放牧をするようなモンゴル的草原を、北京の近傍に欲していただけなのではないか、とも思えてきます。その代わりに、外八廟の方は、今日でも多くの巡礼者が訪れる、とても賑やかな場所となっていて、ポタラ宮を模した普陀宗乗之廟などは、その建物が際だった存在感を街の中で示しています。しかしながら、庭園的に造られた、という嘘っぽさは、どこか拭えない気がします。造りがチープなワケでは決してありません。康熙帝が画工と測量士をラサに送り込んで造らせたという、普陀宗乗之廟は、この都市の中で独特の威光を放っていて、見応えも十分にあります。あるガイドブックに、清王朝の少数民族に対する懐柔策として、チベット寺院をつくった、といった解説がありましたが、単なる懐柔策で、しかもチベットだけを特別扱いする寺院をここまで精巧につくるのは不自然です。やはり、清代の、かの「チュ・ユン」関係と呼ばれる、皇帝とチベット仏教の関係が機能して、チベット仏教に対する最高の敬意としてこれらの寺院を建設した、と考える方が自然な気がします。それくらいの存在感がこれらの寺院に備わっていることは確かです。

しかしそれでも、良し悪しとは全く別ですが、草原から江南的園林、そして外八廟の寺院までを含めて、この都市そのものが、「ごっこ」で塗り固められている、そんな印象を持つのは、僕だけでしょうか。
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by mindscape-ltd | 2010-06-21 22:18 | travel
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