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カテゴリ:travel( 23 )
mindscape travel_18 インドでリバサイ
最近知り合った建築家の内山章さんが、東京大田区の多摩川沿いを「リバサイ」と称して、川に向いたライフスタイルを提唱しておられて、僕自身もそのただ中に居を構える身として、勝手に影響を受けつつ、勝手にイメージを膨らませたりしている今日この頃である。しかし、川について考えれば考えるほど、どうしてもここではなく、あそこの川のあの場所で味わったあの強烈なイメージが蘇ってきてしまう。川が日常的でありながら非日常的なパワーに満ちているあの感覚。自分の中の究極のリバサイは、やはり、あれしかない。

僕もいろいろなところを旅行する中で、何度となく川や水辺に引き寄せられてきたことを思い出すが、あそこほど、川自身が特別なエネルギーを持っていて、特別なオーラを発している場所は他にない。まさにライフスタイルそのもの。いや、ここではスタイルという言葉は軽薄過ぎる。ライフが宿っていることは確かにせよ。スタイルは全く規定されておらず、むしろ極大の包容力を持っているのだ。
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ヒンドゥー教、仏教両宗教の聖地、釈迦が初めて説法を行ったとされるところの傍、国中の人々が沐浴に訪れ、さらにここで死を待つ人たちが大勢いるとされる。ここで死す者輪廻から解脱出来ると言い伝えられ、火葬場があり、その遺灰をこの川に流すことが、死者に対する最高の敬意とされる。生と死が同居し、最貧民から大金持ち、世界中からの観光客、様々な動物まで、ありとあらゆるモノが集結する場所。水が綺麗か汚いか、川辺の空間が格好いいか悪いか、そんなことを全く超越した場所。

20代の僕は、藤原新也の本に軽く触発され、「地球の歩き方」をバイブルのように握りしめ、お気軽な旅行気分でインドに飛び立った。最初に訪れたコルカタ(当時はカルカッタと呼んでいた)の駅前で、ゴミかと思うような人が一面ビッシリ駅舎の大空間に寝転がっている光景を目の当たりにし、足がすくみ、それから数日間、本当に来たことを後悔するようなことばかり続き、十分なインドの洗礼を受けた後、逃げるように夜行列車を乗り継ぎ、早朝夜明け前のワーナラーシー・ジャンクション駅に降り立った。そう、バイブルの「地球の歩き方」によると、夜明け前にここに着き、日の出を拝むのが流儀。が、次の瞬間に、またしても人の大洪水にわっーと呑みこまれ、鋭い目線でたかってくる物乞いやら子どもやらリクシャーやら、野良犬やらとを必死で振り払いながら、何とか前に進むも、気がつけば人の流れに身を任せ、一巡礼者となって川に向かって、真っ暗な道を黙々と何十分も歩き続けていた。

その道中は、恐怖心と好奇心が体内で格闘し、頭の中ではバイブルに書かれていたことを思い返し、先々での行動をイメージトレーニングしながら、胸騒ぎを抑えるのに必死となった。しかし、川に着いた途端、何とも言えない、とてつもない包容力のある、柔らかいモノに包み込まれ、今度は虚脱感と安堵感が交錯する不思議な感覚に陥った。川は夜明け前で真っ暗闇であったにも関わらず、人々がボートを探しはじめたり、着替えて沐浴準備に入ったりしている。

もはやバイブルに記された行動規範を全て忘れ、しばらくじっと川辺に佇んで、真っ暗な中、黒いモソモソ動く影だけを見ていた。やがて川の左手方向がうっすらと明るくなり、太陽が昇りはじめ、そこで初めて周囲の全容が見えてきた。何とも穏やかな世界。聖地というのは、もっと荘厳で畏怖の念を抱くような近寄り難い場所かと思いきや、意外にも極上のリゾート地のようなリラックスした雰囲気が漂い、人々の表情は至極柔らか。相変わらずの物乞いやら物売りの執拗な攻撃を受け続けたが、もはやこちらも寛容に微笑みながらそれらを追い払う、という余裕が生まれていた。
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気を取り直し、バイブルの指南に従って、今度は小舟に乗り船上から陸を眺める。皆それぞれに、沐浴をし祈りを捧げる人、体中泡だらけになって洗ってる人。その横の岸辺で寝そべる人。グループで歓談する人、一人ボーッとする人。乞食、花売り、全くもって何をしているか分からない人。牛や犬や猿までもが紛れている。このように実に様々な人、動物と各々の行為を、どれも全く違和感なく包み込むことの出来る、スゴイとこだ。

僕はそもそも、インドに来て、ムガル時代のカッコイイ城や宮殿の建築やら空間やらのデザインを見て、それがその先のデザインを考える上での肥やしになるのでは、といったことを考えていた。デザインは、空間を秩序立て、奇麗に整え、時に秩序に反するものを排除するような行為かと考えていた。しかし、この場所のこの状況を見ると、どうもその考えは根本的に間違っていたようだ。
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by mindscape-ltd | 2010-08-19 18:37 | travel
mindscape travel_15 イゾラ・ベッラ
mindscape_travel ここまで数回にわたり、中国蘇州の街から清の時代の庭園を幾つか訪ねてきましたが、ここで中国から一気に北に飛んで、イタリアのルネサンス庭園のひとつに行ってみましょう。やはり蒸し暑い夏は、こういう避暑地に逃げたいものです。ここは、イタリア北部、ミラノから更に200Kmほど北、スイス国境に近いマジョーレ湖に浮かぶ、「イゾラ・ベッラ」という避暑別荘です。イタリア・ルネサンス様式の露壇式を典型的に表し、マニエリスムからバロック的要素を色濃く出した庭園。何と言っても、湖上に浮かぶ孤高の要塞庭園というロケーションが、訪れる前からの期待感を増幅します。対岸から小さな船に乗って約15分ほど。こういうアプローチは格別です。

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「イゾラベッラ」は、300m×400mほどの小島。ミラノの名家、ボロメオ家のカルロ3世が、妻イザベラのための別荘として構想し、建築家アンジェロ・クリヴェッリの設計によって1632年に着工します。度重なる中断により庭園を含めて完成したのは1671年、カルロ3世の甥、カルロ4世の代になってから。完成後は、演劇やパーティーが毎晩のように催され、賑わいました。ボロメオ家にとっては、当初は非公式な、そしてやがては公式な社交場となっていきます。庭園は、別荘とは言え、この時代から秘密の花園的雰囲気を担保しつつ、多くの人々を招いて楽しむ場となり、政治的会談や商談などのイベントにも利用されます。バロック特有の劇場的な様相を呈して行く一方、珍しい植物の収集生育場、多様な彫刻やオブジェ、水や休憩施設などなどのエレメントが複合的、複雑に絡み合って空間が出来上がっていくところも興味深い。基壇がセットバックしながら積み上がる中央のテラスは、シンメトリカルに安定的ではなく、宮殿とも微妙にズレた軸性を持ち、ボロメオ家の紋章であるユニコーンやビーナスに混じって、ローマ神話やギリシャ神話をモチーフにした動物やニンフの彫像、オベリスクなど置かれ、宮殿の造りと合わせて、どこか迷宮的な混沌が表れています。それでも一番高台に上がって、湖と遠くの山々を見ると、船のデッキに上がったような清々しい心地にさせてくれます。

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この庭園の中で、一貫して現れる、表面がゴツゴツとした、少々グロテスクなテクスチュア。そう、グロテスクの語源と言われる「グロット(=洞窟)」の造作が、建築空間の狭間を埋め尽くすかの如く、様々な場面で顔を出しています。ハイライトをなしている場所は、ボロメオの宮殿内の、シェル・グロットと言われる応接間(現在は展示室)と、庭園の段々テラスの内側の突端にある、「ビーナスの泉」。シェル・グリッドは、少々暗い、まさに洞窟的な雰囲気をもった、でも完璧なインテリア空間。「ビーナスの泉」の方は、カラッとした屋外。山奥の避暑地の湖であるのに、海を連想してしまします。いずれも、これより初期のグロットに見られた、自然を装った有機的な造りではなく、あくまで建築の壁面に沿ったテクスチュアであったり、雛壇に整然とデザインされていたり、と、かなり人工的にデザインされているのが分かります。

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グロットは、1580年代からイタリア庭園の中に顕著に現れ始めますが、初期の頃は、庭園のある一部分に、洞穴状に掘られた場所に、有機的な石を組み上げたものだったり、どちらかと言えば、怪奇趣味的な要素として持ち込まれていた感がありました。しかし、それが徐々に表へと出てきて、ここイゾラ・ベッラにおいて、庭園の中心的な要素として取り入れられるまでとなり、ひとつのピークに達したと見ることが出来ます。よく、神秘主義の嗜好であるとか、混沌とする世の内面的な逃避先として好まれたとか、解説されることが多いようですが、私には、もっと大きな世界を見通しているように思えてなりません。それは、海であり、さらに遥かかなたの世界のようにも感じます。(続く)
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by mindscape-ltd | 2010-07-07 00:02 | travel
避暑山荘ー中国世界の縮景
蘇州から頤和園の蘇州街へと飛びましたが、さらに350kmほど北上して、承徳という街にある、もうひとつの清代の庭園「避暑山荘」を訪ねてみましょう。こちらは清の第四代皇帝、康熙帝によって造営されたものです。康熙帝は、この避暑山荘をつくる以前から、この地を毎夏訪れてモンゴル族のようなテント生活と狩猟などをしていました。そして1703年に、この夏の離宮(当初は「熱河離宮」と称した)をつくり、モンゴル諸王やイギリスなど外国からの朝貢使節などとも接見し、清朝の首都が瀋陽から北京に遷都されて以降、夏の間の臨時の首都のごとく、本格的な執務を行うようになります。庭園部分(離宮の敷地)だけで頤和園の2倍の面積、540haを擁し、その中が宮殿区と苑景区に別れ、宮殿区は執務を行う場所、苑景区は、湖区や草原区、山岳区などに更に分かれた広大な庭園となっています。更に、庭園の外にも、外八廟と呼ばれる主にチベット仏教寺院が12社ほども散在し、またさらにその外側は燕山山脈という山が取り囲み、そこにも奇峰異石や洞窟などの自然景観が展開しています。このように、承徳は「山荘ー都市ー自然」が一体化して、ひとつの庭園になっていてるといった構成で見ることが出来ます。

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さて、前回の頤和園で見たように、庭園には、本質的に、どこか遠い場所の要素を持って来て、別世界の雰囲気をつくったり、「ごっこ」空間にする、という側面があります。これは、実際に自分が移動をして(つまり色々な所に旅行をして)、全く別の場所の日常が非日常として体験されている感覚を、再度自分の日常として昇華させるような行為であると思います。ここ避暑山荘においても、湖水区と呼ばれるエリアは、頤和園と同じ、江南地方の景色を模した造園、蘇州の寒山寺、杭州の武陵寺、六和塔などを模した建造物があり、外八廟では、チベットのポタラ宮を模した寺院が建てられています。庭園の外壁は、万里の長城さながらの城壁もあります。ここでは、ポテンシャルとして、首都から適度に遠く、避暑に相応しい場所で、北方民族の欲求を満たす平原と草原、中国の仙人思想にも通ずる自然奇景などが備わった場所で、それでもなお足りない要素を造園し、建築したとことによって、まさに世界(中国)のすべてを縮図として手中に収めたような究極の「都市ー庭園」をつくったと言えます。

また、康熙帝は、1710年から宮殿が完成するにあたり、「熱河離宮」から「避暑山荘」と名前を改めると同時に、この山荘の中に「康熙三十六景」なる風景を定めています。この「皇帝が定める風景」という構図は、とても興味深いものがあります。ひとつには、風景そのものを皇帝が「美しい」と定める政治的な意図、「36」という数字の持つ、中国古来の道教に由来する仙人の住処との関連。こうして風景がある特定に枠組みに沿って、整備されて行くことになります。全てを統治する皇帝は、様々な建造物を建てると同時に、それを自らの権限において、その意義を正当化する。こうして、「建築」「文化」「自然」が、それらを束ねる「風景」とともに、政治的に編み直されて行く過程が見えます。これは皇帝が変わって乾隆帝の時代には、新たに「乾隆三十六景」というものに再定位されています。そう、気づかれたかと思いますが、日本の「富嶽三十六景」などの「36」という数字の起源もここにあります。

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現在の山荘内に関しては、保存状態の差もあるでしょうが、頤和園と比べるととても質素で、建築などの構造物が大きく目立つこともなく、水、草原が、一見、自然にあるだけの空間にみえます(ただし、湖などは人工的に造られたものです)。江南の風景を模したとされるエリアは、屋根などの造りにその影響は見えますが、さほど徹底している感じもうけません。水際の遊びのデザインでも、頤和園の方が遙かに工夫が凝らされています。どちらかと言えば、江南園林的要素は、ひとつの流行、もしくは中国の代表的な要素として、取り入れられたに過ぎず、康熙帝は、むしろ純粋に狩猟や放牧をするようなモンゴル的草原を、北京の近傍に欲していただけなのではないか、とも思えてきます。その代わりに、外八廟の方は、今日でも多くの巡礼者が訪れる、とても賑やかな場所となっていて、ポタラ宮を模した普陀宗乗之廟などは、その建物が際だった存在感を街の中で示しています。しかしながら、庭園的に造られた、という嘘っぽさは、どこか拭えない気がします。造りがチープなワケでは決してありません。康熙帝が画工と測量士をラサに送り込んで造らせたという、普陀宗乗之廟は、この都市の中で独特の威光を放っていて、見応えも十分にあります。あるガイドブックに、清王朝の少数民族に対する懐柔策として、チベット寺院をつくった、といった解説がありましたが、単なる懐柔策で、しかもチベットだけを特別扱いする寺院をここまで精巧につくるのは不自然です。やはり、清代の、かの「チュ・ユン」関係と呼ばれる、皇帝とチベット仏教の関係が機能して、チベット仏教に対する最高の敬意としてこれらの寺院を建設した、と考える方が自然な気がします。それくらいの存在感がこれらの寺院に備わっていることは確かです。

しかしそれでも、良し悪しとは全く別ですが、草原から江南的園林、そして外八廟の寺院までを含めて、この都市そのものが、「ごっこ」で塗り固められている、そんな印象を持つのは、僕だけでしょうか。
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by mindscape-ltd | 2010-06-21 22:18 | travel
頤和園の「蘇州街」 へ
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前回の蘇州から、北に飛んで、北京郊外の頤和園という、こちらも世界遺産に登録されている庭園に行ってみましょう。280haの広大な敷地を擁する頤和園ですが、そのうちの約200haは、昆明湖という湖で占められています。広大なスケールで展開する水と山(しかもほぼ人工的に造営されたもの)、その中に点在する宮殿、塔などのパビリオン群で構成され、とにかく中国的スケールの庭園です。

この庭園の北のはずれ、主要な建造物が南面して並ぶ万寿山の北の麓に、「蘇州街」と言われる一角があります。長さ300m程、幅20m程の水路に沿って、江南地方の水郷都市をモチーフにした街並をつくっています。ここだけは、頤和園の中でも特異な、ヒューマンスケールで、とても歩きやすいエリアです。中国の庭園は、極めてコンセプチュアルに空間が構成されている場合が多く(風水や四神相応を拠り所に)、俯瞰的(つまり、ハイパーヒューマンスケール的に)にプランニングがなされているため、そうした知識が無いと、空間に立っただけで直感的に意図を読み取ることはとても難しく、私の個人的な感覚では、時に場が間延びしていたり、ただ広いだけに思えたり、ある意味、空間的緊張感に欠け、植栽も効果的に見えなかったり、あまり良い印象を持てないことも間々あるのですが、ここ蘇州街は、テーマパークっぽい雰囲気も持ち合わせていて、とても親しみやすい場になっていると思います。それもそのはず、ここは、かの清朝、六代皇帝、乾隆帝の時代に、自らが昔に訪れた江南地方の街並を愛しんでつくったとされ、この中に64軒もの店を置き、宦官たちに店員役をやらせ、船で乗り付け、買い物ごっこをして遊んだ、という逸話が残されています。離宮としての庭園の一番北の外れだけに、このような俗っぽい場を造り得たのでしょう。

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ところで、庭園やランドスケープにとって、「トランスファー」(移動性:transferability)という概念は非常に重要とされています。一見矛盾しているようですが、ランドスケープが、安定的で、永久的、またその場所固有の風土や場所性を前提として成立するとすると考えたい一方で、他方、人やものが移動したり、全く別の場所のものが挿入されたり、ということによって、際立ったランドスケープが成立する、という例は、古今東西とても沢山あります(殆どがそうであるといっても過言ではありません)。この蘇州街では、北京から遙か南の都市の街並をつくっていますが、ほぼ同時代のイギリスの風景式庭園でも、時空を超えて、ギリシャ神殿風の東屋や廃墟を持ち込むような庭が流行っていました。つまり、ある場所の中で、遠くに旅行に出かけて行ったような気分を味わおう、といった発想です。日本でも長崎にオランダの街並をつくる、といった例がありますが、ここで注意したいのは、前回見た実際の蘇州の街並と、この頤和園の蘇州街の街並、どう見比べても、同じではない、ということ。ほんものの蘇州には、ここまで派手やかな彩色はありませんし、門柱のようにアクセントをなす建造物もない。リズミカルに雁行する護岸も、モチーフは、あっちにあったかもしれないけど、ここでは、このスケールの中で見事に生きている。水際の際どい動線なんかは、実際の街ではあり得ないでしょう。つまり、この蘇州街をつくるにあたっては、相応のイメージの転換と、精緻な設計が施されているように思えます。単なるコピー&ペーストではありません。「トランスファー」という概念は、「トランスレート(翻訳)」という過程を経て、とても安定した場をつくりだしているのです。

注)この「蘇州街」は、建造当時の清漪園の一部として、乾隆帝の時代、1770年頃つくられたが、第二次アヘン戦争で、英仏軍に破壊される。その後、西太后の時代に他の部分が再建されるが、「蘇州街」は再建されず、1990年に再建されたものである。オリジナルの「蘇州街」との違いを指摘する向きもあるが、大きな構成、スケール感などは、ほぼ再現されていると思われる。
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by mindscape-ltd | 2010-06-15 21:22 | travel
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阿蘇の野焼き、死と再生のためのランドスケープ。
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山肌に見えるクニョクニョした線は、牛の通る道だそうです。
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by mindscape-ltd | 2010-03-18 11:10 | travel
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ジョン・F・ケネディ・メモリアル

ラニーミードは、ロンドンの南西郊外、ウィンザー城に近い、テムズ河畔に位置する約100ヘクタールの緑地で、1215年にジョン王がマグナ・カルタに調印した場所として知られる。1931年、ナショナル・トラストの管理下に置かれ、1951年、第二次大戦の国内での戦死者メモリアル、1957年には、マグナ・カルタ・メモリアル、そして、1965年にジョン・F・ケネディ・メモリアルが、各々少し離れた森の中に建てられている。

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その中で、ジョン・F・ケネディ・メモリアルは、1965年、ケネディ暗殺事件を悼み、1エーカーの土地をアメリカに永久譲渡し作られたもので、ジェフリー・ジェリコによってランドスケープがデザインされている。ジェリコの初期の代表作とされるが、それ以前のモダニズム風のデザインとは明らかに異なり、ジェリコにとっての転機となったことをうかがわせる。そのデザインは、いくつかの全く異なるシーンの連続で構成されている。テムズ川に沿った草原を抜けると、控え目なゲートが森のエッジに現れる。このゲートが結界となり、静かな森の中に入ると、約200mほど、蛇行して先の見えない、上り坂のピンコロ石が敷き詰められたアプローチが続く。そして、森が開けてきた先に、記念碑の白い石が見える。それも正面に象徴的に現れるといよりは、木の陰から少しづつ姿を現す、といった感じである。記念碑に辿り着くと、その右手は、また草地が開け、遠くにはテムズ川も見渡せる。石碑そのものは、四角い石にぎっしりと文字が刻まれ、台座で浮かされていいる分、スッキリとモダンな印象をもたらす。そして、草原の方に目をやると、今度は、一直線に伸びる園路が、その先の草原を見晴らす2カ所の休憩スペースへと導く。

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確かに、上質で静謐な、ジェリコならではの空間性は瞬時に感じ取れるものの、これら連続的とも断続的とも思える微妙なシークエンスと、その背後にあるストーリーは、その場で意図を読み解くのは、かなり困難にも思える。ジェリコの著作によると、まずインスピレーションをジョン・バニヤンの「天路歴程」という寓話から得ているという。全体の道程は、人の生と死、そして魂を現す。森のアプローチは、人々の悲しみ、石碑は人々が背負った棺、理不尽を超えて、草原の園路が、家族の絆としての二箇所の玉座に導く。つまり、現世の鬱蒼とした森と、石碑を結界として、天につながる、ギリシャ神殿のような高度な調和の取れた世界という、ふたつ対照的な空間性を、シークエンスとして現している、というわけである。

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そう、こうした寓話的なシークエンスは、まさにイギリス風形式庭園そのものである。自然「的」な、奔放とした森や草原の中に、ギリシャ神殿のような究極的な調和世界が挿入される。しかし、ここでは過度に目を奪う仕掛け(イギリス庭園のフォリーに相当するもの)はなく、結節点には、ケネディの石碑があるだけであり、寓話を紐解くには、かなりの深い知性を要求される。

それにしても、一見、何の変哲も無い草原と森に思えるこの場所が、13世紀のマグナ・カルタから、20世紀のジョン・F・ケネディを経て、17世紀のジョン・バニヤンの寓話世界につながる意味の迷宮となっているあたり、とてもイギリスらしい混沌を秘めた場所である。

http://www.nationaltrust.org.uk/main/w-vh/w-visits/w-findaplace/w-runnymede.htm

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by mindscape-ltd | 2009-08-10 19:33 | travel
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英連邦戦死者墓地

ランドスケープを語るとき、デザインが良い、ディテールが奇麗、植栽のメンテナンスが行き届いている、これらを総合して空間として優れている、と、専門家っぽく評価をしてみたところで、そんなことでは語りつくされない、何かもっと重要なことがあるはず、この「英連邦戦死者墓地」を訪れる時、いつもそう考えさせられる。
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横浜の中心街から少し外れた、緑豊かな丘の中腹にあるこの墓地は、デザイン、ディテール、メンテナンス、いずれも格別に優れていることは確かである。この辺には珍しいユーカリの大木、日本産の大谷石や御影石を使いながら、イギリス風のデザインでおさめた園路やモニュメントなど、デザイン的興味も尽きないが、空間として凛とした緊張感が漂い、リラックスした気分と、背筋を伸ばしたくなる気持ちの両方が襲ってくる場所である。
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まずは、ここが一般に広く開放された公園でも、観光地でもなく、墓地であるということ。さらには、この墓地が、第二次世界大戦時、主に日本軍の捕虜となり日本各地の捕虜収容所での苦難の末、母国に戻ることなく死亡した、イギリス連邦の兵士1900人余りが眠る場所であるということ(一部、英連邦以外で戦後も含む)。普通の墓地とも違い、墓碑が全て統一され、低い位置に整然と並び、まぶしい程に奇麗な芝生と、その間に、丁寧にバランスが考えられたバラやハーブなどの低木がアクセントとして加わっている。周囲は、厚い森林で囲われ、余計なものが視覚、聴覚に殆ど入らない。どこにも無駄が無く、全てに重厚な意味が詰まっているようである。
この場所は、大正11年、「児童遊園地」設置運動の走りとして開園した遊園地の一部であったが、戦後の一時接収により、英国連邦が墓地候補地とし、接収解除後も永久使用の為に英連邦に無償貸与されたもので、旧ビルマの泰緬鉄道の建設に従事させられ、その後日本に連行された捕虜、直江津収容所での捕虜虐待で死亡したオーストラリア兵を含め、死者を母国に搬送せず、現地に埋葬するイギリスの習わしに従って作られた墓地である。そしてイギリスの政府要人来日に際しても必ず立ち寄られる場所である。

特段、捕虜に関する説明はなく、エントランスには「日本国民から贈られた場所である」とだけ刻まれている。そのため、ここで戦争捕虜という負の歴史に思考を巡らせる人は、日本人でも多くないように思える。実際、山手の外人墓地と同列に、観光地のように解説する資料も見かける。しかしながら、ここは、多くを語らずとも誠実に慰霊するための神聖なる空間という、配慮と誠意に尽くされたピュアな場所なのである。各々の墓碑には、故人を哀悼する遺族の言葉が、各々力強く記されている。整然と、統一された墓碑に刻まれる、各々に異なる、静かなメッセージが、余計に、この場所に重みと深みを与える。

ここは、「場所」の持つ社会性や歴史、心情や愛情までをも含めた、ランドスケープの真義を思い起こすためのの、貴重な場所である。(yng)
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by mindscape-ltd | 2008-10-01 17:37 | travel
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ウェスターガスファーブリック

アムステルダム中心部から北西に2kmほどの場所、約10ヘクタール程のガス工場跡地に2003年、「文化」をテーマとする公園がオープンした。公園と言っても、イベントスペース、映画館、オフィス、そしてバーにレストランなどを擁する複合施設である。ホームページを見ると、全く公園らしからぬ、エンターテイメントな雰囲気で、公園内で開催されているイベントのリストがずらりと並んでいる。
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全体のコンセプトを「カルチュア」と「クリエイティブ」とし、工場としての建物が、60〜2500平米までの様々なイベントスペース、会議場、劇場などに改装し、時には屋外でのさらに大規模なイベントまでも含めて、貸出しを積極的に進め、公園の運営資金としていることが分かる。
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しかし、日中イベントのない時にこの公園を訪れると、なんとも長閑で平和な雰囲気を漂わせている。このランドスケープは、アメリカのランドスケープアーキテクト、キャサリン・グスタフスンである。近年、WEST8を筆頭に、かなり元気の良いオランダのランドスケープの中で、かなり大人な、清楚さがデザインされている。シンプルに大きな芝生面と直線的な水の流れ、それもアムステルダム風の運河ではなく、より親水性の高いせせらぎである。また、保存されたガスホルダーの周りは、ワイルドな葦の湿原が広がり、心地よい緊張感の漂う、大らかな空間が完成している。
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つまり、活発なこの公園アクティビティそのものと公園のデザインは、巧みに切り離されており、決してランドスケープデザインが、イベント的なアクティビティを誘発したりはせず、イベントをテンポラリーな要因として冷静に横に見て、あくまで緑と水を根源的にシンプルにデザインするという態度をとっているのだ。

また、ガス工場跡地といった歴史的、地理的コンテクストも、利用したり、補完したりもせず、例えば残された古い建物群と公園のランドスケープは、適度な対峙関係を構築しているように思える。決して無視をしているわけではないが、すり寄ることもせず、レイアウトとしてのバランスは見事に整っているものの、ある種の不調和、しかも、見ていて決して不快ではない、不協和音のような緊張感がある。例えば、これはWEST8のスコーブルグプレイン(ロッテルダム)と極めて対照的である。勿論、ロケーションやポテンシャルは異なるが、広場内には、ベンチとクレーンのガントリーを思わせるフォリー以外に要素は無いものの、明らかに都市のアクティビティと関連づけられた舗装パターンや、ロッテルダムの場所性を斬新に翻訳している鉄のフォリーは、やはりアクティビティとコンテクストに対する深い敬意が読み取れるが、ここでは、公園という原初的な体験、どこまでも奇麗な水と緑という要素が、一瞬アムステルダムにいることを忘れさせるような場所としている。
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by mindscape-ltd | 2008-09-24 23:08 | travel
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マドリッド・アトチャ駅

マドリッド・アトチャ駅は、スペインの大動脈、セビリアとバルセロナを結ぶ、AVE(新幹線)の発着駅、レンフェと呼ばれる近距離の通勤電車、地下鉄などが連絡するスペイン最大のターミナル駅である。古いスペイン語で「南」即ち、「南駅」という意味のアトチャ駅は、1851年にマドリッド初の駅としてオープンする。しかし、一旦は
火事で焼失、1892年再オープンすることとなる。この際に造られた駅舎が今日でも残っている。プラットフォームを覆う駅舎建築は、ギュスタフ・エッフェル(エッフェル塔の作者)の弟子で、スペインでも多くのガラスと鉄の建築や橋などを手がけている、アルベルト・エリサーニュの作である。幅50メートル、長さ150メートルの巨大な鉄のアーチの頂部にガラスが入れられ、そこからスリット状に光が差し込む。19世紀らしい造り、今では哀愁すら漂うチャーミングな駅である。
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この駅舎はしかし、都市マドリッドの発展と共に手狭となったため、1992年、AVEや中距離列車の発着する8本のプラットフォームを擁する新しい駅舎が南に隣接して生まれ、近距離電車は地下に入れられた。新駅舎の設計は、ラファエル・モネオである。そして古い駅舎は、屋根をそのままにして、熱帯植物園となったのである。その周りにはカフェや店舗、ナイトクラブが入り、まったく新しい駅のスタイルを完成させたのだ。日本であれば、大都市のど真ん中、主要ターミナル駅の巨大面積をジャングルにするという発想は、どう逆立ちしても絶対に出せない。すかさず取り壊し→高層化→ショッピングモール(しかもテナントはメジャーチェーン店)というパターンに流れるしかない。
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駅に降り立って、最初に目にする空間が、19世紀末の趣を残す大きなアーチ屋根の下の熱帯植物園、屋上から鉄のフレーム越しに柔らかな光が射し、霧のシャワーが時々降り注ぐ。そこに巨大なヤシや湿生植物、これは間違いなく世界で一番洒落た駅の演出である。地中海気候の地に多湿の熱帯植物?と、冷ややかに見る向きもあろうか知れぬが、所詮は、乾いた大都市のド真ん中である。しかも、わざわざ入場券を買って植物園に行くのとは訳が違う。長旅の列車から降り立ち、知らずのうちにジャングルの中に迷い込むのである。どの旅行者も、まずは荷物を置き、植物たちの脇に腰掛けて、一息ついているはずだ。

残念なことに、2004年3月、この駅の地下を通る近距離通勤電車を狙ったテロが勃発、191人が死亡、1700人がケガをする惨事となってしまった。その日以降数日間に渡り、殺戮現場と化したアトチャ駅をテレビで見せられ、悲痛な思いであった。(yng)
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by mindscape-ltd | 2008-09-24 21:53 | travel
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キーブル・パレス

グラスゴー植物園は、グラスゴーのウェストエンド、グラスゴー大学の北の外れ、学生街と高級住宅地のボーダーのような位置にある。私が十数年前にここを訪れた時は、とてもエレガントなフォルムを見せながら、ボロく朽ちかけた温室があったのを覚えている。この温室が2006年に140億円をかけて大改修されたと聞いていたので、いつか訪れてみたいと思っていた。
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この温室、通称「キーブル・パレス」と呼ばれ、元々19世紀、ビクトリア時代の発明家であり、エンジニアであったジョン・キーブルが設計し、建設したものである。このキーブルとは、河を走るための自転車や、世界最大のカメラを発明したことで、スコットランドでも語り継がれる変わり者である。キーブルは、1869年、この温室を最初に自身の家のあるロッチロングという場所に建てるが、1872年、植物園に寄贈をするべく、解体し、船に乗せ、50km離れたグラスゴーに運び、さらに中央のドームの直径を拡げ、手前に小ドームと2つの側廊を加えて建て直した。
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当初は、コンサートなどのイベントホールとして使われたのを、1881年、借地権を得たグラスゴー王立植物学協会が、主にオーストラリアのシダ類の展示温室として使用をはじめる。それに交えてバショウ(Japanese Banana)、シャクナゲ、ツバキ、今日では、小ドームに多肉植物と食虫植物のコレクションもある。今回の大改修も、一旦丁寧に解体された後、ヨークシャーに運ばれ、主要部のビクトリア時代の鉄の柱のいくつかは、鋼材に置き換えられ、組み立て直されている。
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この温室のデザインは、ビクトリア時代の作にしては、スッキリとエレガントなフォルムをしていて、装飾的要素も控えめである。キューガーデンのパームハウス(1848年完成)に、似ていなくもないが、中央の円形ドームのダイナミックな空間は、むしろこちらが勝っているように思える。超有名なジョセフ・パクストンのクリスタルパレスが、1851年にお披露目された後、ヨーロッパとアメリカで、温室建築が次々建てられる。規模が世界最大級のコテコテのビクトリアンなキューガーデンのテンペレイトハウス(1863年)や、欧州一エレガントと評されるベルギーのラーケン王立植物園の温室(1890年完成)、これらと同時代と考えても、全く見劣りがしない。

この温室、日没の早い冬は、午後3時くらいから照明が灯り、外から温室全体が発光体のように見えるそうである。
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(yng)
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by mindscape-ltd | 2008-09-04 22:35 | travel


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