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Grass Maze
ロンドンの近郊、RHSガーデン(王立園芸協会ガーデン)でみつけた、芝生のメイズ。ブルーグラス系の芝の毛足を伸ばしてつくった迷路。(俯瞰した写真が無いので、全体像がわかり難いですが)
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by mindscape-ltd | 2010-06-29 22:31 | 芝生ランドスケープ
月と農業
今夜は月蝕。天気はあいにくですが。

そんな夜に読みたい一冊

「月と農業 ー中南米農民の有機農法と暮らしの技術」
ハイロ・レストレポ・リベラ著/福岡正行・小寺義郎日本語監修/近藤恵美訳
農文協 2008年

まずは月に関する基本的な事柄、人間がどのように月と関わってきたかなどなど基本的な事項がとても丁寧に解説されていて、後半から、月齢が植物に及ぼす影響、野菜類に及ぼす影響、播種、移植、収穫の月との関係における適期などがとても詳しく書かれている。

以下、抜粋。

「太陽が地球に及ぼす引力以上に月の引力が地球に及ぼす影響は明白であり、そのなかでも地上の液体に与える影響は顕著である。」

「月齢がその成長に際だって影響を及ぼす植物は多種にわたるが、なかでも顕著なのは、ツル性植物、ブーゲンビリアなどの夏の植物、フジなどだ。さらにいくつかの植物の開花が、潮の干満と密接に関わっていることも証明されている。」

「月齢と樹液の活動:新月→樹液の流れは下降し、根部に集中する/上弦の月→樹液の流れは上昇し始め、幹部に集中する/満月→樹液は樹冠内の葉、花、果実の部分に集中する/下弦の月→樹液の流れは下降し始め、樹幹や根部に集中する。」

「留意したいのは、地上部でも地表面に育つレタス、フダンソウ、ホウレンソウ、リトルコーン、キャベツなど、葉を食用にする野菜の場合は、二十六夜で播種したほうがよいことである。三日月で播種すると、花が早く咲いてしまう傾向がある。」

「農家の間では、納屋などを建てるときの建築材は、二十六夜をはさんだ前後に伐り出すのが最も良いと考えられている。」

「カンキツ類の整枝・せん定・・・せん定を行うのによい月齢は新月である。このタイミングで行えば極端な徒長枝の発生を防ぐことができ、果樹全体の成長を阻みかねない吸枝(いらない枝)があちこちにできないようになる。」

(監修者による「はじめに」)「本書で取り上げているのは・・・月と農業の関わり、その影響関係を著者がブラジル、コロンビア、ニカラグアなどのの農民(主に小農)から聞いてまとめたもので、いまだ伝統的な要素を残す彼らの農業の実際に根ざす知恵や発想が溢れている。」

最後には、月と動物の性についても触れられている。
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by mindscape-ltd | 2010-06-26 21:36 | reading
新潟県立歴史博物館
新潟県立歴史博物館の庭、段差の一部の蛇籠に。設計は、プランタゴ田瀬理夫氏。

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by mindscape-ltd | 2010-06-26 20:41 | 芝生ランドスケープ
避暑山荘ー中国世界の縮景
蘇州から頤和園の蘇州街へと飛びましたが、さらに350kmほど北上して、承徳という街にある、もうひとつの清代の庭園「避暑山荘」を訪ねてみましょう。こちらは清の第四代皇帝、康熙帝によって造営されたものです。康熙帝は、この避暑山荘をつくる以前から、この地を毎夏訪れてモンゴル族のようなテント生活と狩猟などをしていました。そして1703年に、この夏の離宮(当初は「熱河離宮」と称した)をつくり、モンゴル諸王やイギリスなど外国からの朝貢使節などとも接見し、清朝の首都が瀋陽から北京に遷都されて以降、夏の間の臨時の首都のごとく、本格的な執務を行うようになります。庭園部分(離宮の敷地)だけで頤和園の2倍の面積、540haを擁し、その中が宮殿区と苑景区に別れ、宮殿区は執務を行う場所、苑景区は、湖区や草原区、山岳区などに更に分かれた広大な庭園となっています。更に、庭園の外にも、外八廟と呼ばれる主にチベット仏教寺院が12社ほども散在し、またさらにその外側は燕山山脈という山が取り囲み、そこにも奇峰異石や洞窟などの自然景観が展開しています。このように、承徳は「山荘ー都市ー自然」が一体化して、ひとつの庭園になっていてるといった構成で見ることが出来ます。

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さて、前回の頤和園で見たように、庭園には、本質的に、どこか遠い場所の要素を持って来て、別世界の雰囲気をつくったり、「ごっこ」空間にする、という側面があります。これは、実際に自分が移動をして(つまり色々な所に旅行をして)、全く別の場所の日常が非日常として体験されている感覚を、再度自分の日常として昇華させるような行為であると思います。ここ避暑山荘においても、湖水区と呼ばれるエリアは、頤和園と同じ、江南地方の景色を模した造園、蘇州の寒山寺、杭州の武陵寺、六和塔などを模した建造物があり、外八廟では、チベットのポタラ宮を模した寺院が建てられています。庭園の外壁は、万里の長城さながらの城壁もあります。ここでは、ポテンシャルとして、首都から適度に遠く、避暑に相応しい場所で、北方民族の欲求を満たす平原と草原、中国の仙人思想にも通ずる自然奇景などが備わった場所で、それでもなお足りない要素を造園し、建築したとことによって、まさに世界(中国)のすべてを縮図として手中に収めたような究極の「都市ー庭園」をつくったと言えます。

また、康熙帝は、1710年から宮殿が完成するにあたり、「熱河離宮」から「避暑山荘」と名前を改めると同時に、この山荘の中に「康熙三十六景」なる風景を定めています。この「皇帝が定める風景」という構図は、とても興味深いものがあります。ひとつには、風景そのものを皇帝が「美しい」と定める政治的な意図、「36」という数字の持つ、中国古来の道教に由来する仙人の住処との関連。こうして風景がある特定に枠組みに沿って、整備されて行くことになります。全てを統治する皇帝は、様々な建造物を建てると同時に、それを自らの権限において、その意義を正当化する。こうして、「建築」「文化」「自然」が、それらを束ねる「風景」とともに、政治的に編み直されて行く過程が見えます。これは皇帝が変わって乾隆帝の時代には、新たに「乾隆三十六景」というものに再定位されています。そう、気づかれたかと思いますが、日本の「富嶽三十六景」などの「36」という数字の起源もここにあります。

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現在の山荘内に関しては、保存状態の差もあるでしょうが、頤和園と比べるととても質素で、建築などの構造物が大きく目立つこともなく、水、草原が、一見、自然にあるだけの空間にみえます(ただし、湖などは人工的に造られたものです)。江南の風景を模したとされるエリアは、屋根などの造りにその影響は見えますが、さほど徹底している感じもうけません。水際の遊びのデザインでも、頤和園の方が遙かに工夫が凝らされています。どちらかと言えば、江南園林的要素は、ひとつの流行、もしくは中国の代表的な要素として、取り入れられたに過ぎず、康熙帝は、むしろ純粋に狩猟や放牧をするようなモンゴル的草原を、北京の近傍に欲していただけなのではないか、とも思えてきます。その代わりに、外八廟の方は、今日でも多くの巡礼者が訪れる、とても賑やかな場所となっていて、ポタラ宮を模した普陀宗乗之廟などは、その建物が際だった存在感を街の中で示しています。しかしながら、庭園的に造られた、という嘘っぽさは、どこか拭えない気がします。造りがチープなワケでは決してありません。康熙帝が画工と測量士をラサに送り込んで造らせたという、普陀宗乗之廟は、この都市の中で独特の威光を放っていて、見応えも十分にあります。あるガイドブックに、清王朝の少数民族に対する懐柔策として、チベット寺院をつくった、といった解説がありましたが、単なる懐柔策で、しかもチベットだけを特別扱いする寺院をここまで精巧につくるのは不自然です。やはり、清代の、かの「チュ・ユン」関係と呼ばれる、皇帝とチベット仏教の関係が機能して、チベット仏教に対する最高の敬意としてこれらの寺院を建設した、と考える方が自然な気がします。それくらいの存在感がこれらの寺院に備わっていることは確かです。

しかしそれでも、良し悪しとは全く別ですが、草原から江南的園林、そして外八廟の寺院までを含めて、この都市そのものが、「ごっこ」で塗り固められている、そんな印象を持つのは、僕だけでしょうか。
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by mindscape-ltd | 2010-06-21 22:18 | travel
頤和園の「蘇州街」 へ
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前回の蘇州から、北に飛んで、北京郊外の頤和園という、こちらも世界遺産に登録されている庭園に行ってみましょう。280haの広大な敷地を擁する頤和園ですが、そのうちの約200haは、昆明湖という湖で占められています。広大なスケールで展開する水と山(しかもほぼ人工的に造営されたもの)、その中に点在する宮殿、塔などのパビリオン群で構成され、とにかく中国的スケールの庭園です。

この庭園の北のはずれ、主要な建造物が南面して並ぶ万寿山の北の麓に、「蘇州街」と言われる一角があります。長さ300m程、幅20m程の水路に沿って、江南地方の水郷都市をモチーフにした街並をつくっています。ここだけは、頤和園の中でも特異な、ヒューマンスケールで、とても歩きやすいエリアです。中国の庭園は、極めてコンセプチュアルに空間が構成されている場合が多く(風水や四神相応を拠り所に)、俯瞰的(つまり、ハイパーヒューマンスケール的に)にプランニングがなされているため、そうした知識が無いと、空間に立っただけで直感的に意図を読み取ることはとても難しく、私の個人的な感覚では、時に場が間延びしていたり、ただ広いだけに思えたり、ある意味、空間的緊張感に欠け、植栽も効果的に見えなかったり、あまり良い印象を持てないことも間々あるのですが、ここ蘇州街は、テーマパークっぽい雰囲気も持ち合わせていて、とても親しみやすい場になっていると思います。それもそのはず、ここは、かの清朝、六代皇帝、乾隆帝の時代に、自らが昔に訪れた江南地方の街並を愛しんでつくったとされ、この中に64軒もの店を置き、宦官たちに店員役をやらせ、船で乗り付け、買い物ごっこをして遊んだ、という逸話が残されています。離宮としての庭園の一番北の外れだけに、このような俗っぽい場を造り得たのでしょう。

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ところで、庭園やランドスケープにとって、「トランスファー」(移動性:transferability)という概念は非常に重要とされています。一見矛盾しているようですが、ランドスケープが、安定的で、永久的、またその場所固有の風土や場所性を前提として成立するとすると考えたい一方で、他方、人やものが移動したり、全く別の場所のものが挿入されたり、ということによって、際立ったランドスケープが成立する、という例は、古今東西とても沢山あります(殆どがそうであるといっても過言ではありません)。この蘇州街では、北京から遙か南の都市の街並をつくっていますが、ほぼ同時代のイギリスの風景式庭園でも、時空を超えて、ギリシャ神殿風の東屋や廃墟を持ち込むような庭が流行っていました。つまり、ある場所の中で、遠くに旅行に出かけて行ったような気分を味わおう、といった発想です。日本でも長崎にオランダの街並をつくる、といった例がありますが、ここで注意したいのは、前回見た実際の蘇州の街並と、この頤和園の蘇州街の街並、どう見比べても、同じではない、ということ。ほんものの蘇州には、ここまで派手やかな彩色はありませんし、門柱のようにアクセントをなす建造物もない。リズミカルに雁行する護岸も、モチーフは、あっちにあったかもしれないけど、ここでは、このスケールの中で見事に生きている。水際の際どい動線なんかは、実際の街ではあり得ないでしょう。つまり、この蘇州街をつくるにあたっては、相応のイメージの転換と、精緻な設計が施されているように思えます。単なるコピー&ペーストではありません。「トランスファー」という概念は、「トランスレート(翻訳)」という過程を経て、とても安定した場をつくりだしているのです。

注)この「蘇州街」は、建造当時の清漪園の一部として、乾隆帝の時代、1770年頃つくられたが、第二次アヘン戦争で、英仏軍に破壊される。その後、西太后の時代に他の部分が再建されるが、「蘇州街」は再建されず、1990年に再建されたものである。オリジナルの「蘇州街」との違いを指摘する向きもあるが、大きな構成、スケール感などは、ほぼ再現されていると思われる。
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by mindscape-ltd | 2010-06-15 21:22 | travel
老場坊1933
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上海ネタでもうひとつ。2008年、上海にまた興味深いスポットが誕生していた。「老場坊1933」と言う名前のその場所は、かつて屠殺場があった場所で、1933年に建設された建築をそのまま残し、ギャラリー、イベント、商業、オフィスの複合施設としてリノベーションしたものである。上海にはこれまで、新天地、田子坊、莫千山路50号(M50)など、古い建物をリノベーション、コンバートした施設、地区は幾つかある。新天地は商業的な色が濃く、田子坊、M50は、アーティストの活動から発生して、過度に洗練されていない素朴な良さを残しており、いずれも、雰囲気は異なるものの、古の上海らしさと現代的な用途を混合した面白い場所をつくっている。しかし、この「老場坊1933」は、同じリノベーションでも、これらとはかなり異質である。この古い建物自体が強烈な個性を持っているからである。古き良きものと現代の混合といった次元を超え、どこか未来的な様相すら漂わせている。正面ファサードの幾何学的ラティスに始まり、中央の円形の建物と、周囲と縦横に繫がる空中回廊、上に広がる柱とシャープなコンクリートの表情。方向感覚を失うような迷宮的なプラン。ここまで強烈な個性を持つと、少々商業的につくり変えてみても、決して新天地のような平和な商業施設にはならない!
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この建築、解説によると、1933年、当時の上海自治政府が、イギリスからバルフォアという建築家を呼び、300万ドルを掛け、つくらせたものであるという。使用したセメントはイギリスのポーツマスから取り寄せ、50cmの厚さのコンクリートによって、自然空冷システムをつくるなど、当時の最先端、最高の技術により、世界最大規模の屠殺場をつくったとされている。しかしこの解説はかなり不可解である。色々と調べてみても、イギリスのこの時代にバルフォアという名で、これほど先鋭的なデザインをしそうな建築家は見当たらない。では建築家ではないとして、初代上海領事のジョージ・バルフォアは、1893年に没しているので違う。バルフォア宣言で有名なアーサー・ジェームス・バルフォア(「バルフォア宣言」で有名)も、同時代ではあるが恐らく無関係。もう一人、エンジニアで国会議員、ポーツマス出身のジョージ・バルフォアという人物がいて、今でも現存するバルフォア・ベッティという建設会社の創始者。この人物の可能性もあるが、Web上で調べた限り、彼のキャリアの中には、上海との関係は一切出てこない。上海の建築史において、1920Sに外灘のネオクラシックの建築群が完成し、30Sに入り、アメリカからのアールデコの影響を受けた建築群が出始めるといった通説の中で、正面のファサードにこそ、アールデコ的な装飾を見る事が出来るとしても、内部の空間性はそれだけでは説明がつかない。1933年と言えば、バウハウスが閉校した年であるが、イギリスでは、バスホルド・リベトキンのテクトンが活躍していた時代で、そうした影響が読めなくもない。恐らくは、もっと特殊な経緯がありそう。(誰か、知っていたら教えて下さい)

→以下に詳しい解説有り
http://www.sbfnet.cn/useful/history/21.html

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さてこの施設、イベント、商業、オフィスの複合施設としてリノベーションしたもの、とされているが、今の時点でも、見たところ半分近くが空室のようである。特にオフィススペースとおぼしき部分は、殆ど空いている。イベントでは盛況とも聞くが、やはりオフィスとしては使い難いという噂もある。極めて堅牢なつくりと、かつて牛が歩いた細くて高い塀の通路。このような建築を残したこと自体に大いなる価値を認めるとすれば、当初のコンセプトを継続し、維持していって欲しいと願うが。
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by mindscape-ltd | 2010-06-04 23:44 | 上海サンポ
世博
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上海万博に行ってきました。最初の頃こそ、客の入りが鈍いと、日本のマスコミも嬉しそうに報道していましたが、ここに来て、政府発揚か、連日30万人超えの大盛況。各パビリオンも長蛇の列、列の最後尾に辿り着くのもたいへんな状況となっており、時間もあまり無かったので、比較的すいていた城市最佳実践区と主題館、万博文化中心などを巡り、あとはひたすら歩いて会場の自体を観察することにしました。

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城市最佳実践区などもそれなりに見所はあって、楽しめましたが、何故空いていたのか。エリアが一番端っこだったのもあるのでしょうが、後で分かったのは、皆が各国館に押し寄せる目的のひとつは、各国のスタンプをパスポート等に押してもらうこと。スタンプラリーってやつですね。愛知万博でもあったと思いますが、見てると子どもよりも、いい歳の大人がスタンプ台に群がってる。この心境、今度分析してみたい。。

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城市最佳実践区や文化中心などは色々なところで、既に語られているので、主題館について感想を書いてみます。

主題館(テーマ館)は、中国館とは別に、主催者である中国政府が先導的に今万博の主題に沿った展示を行うパビリオンで、敷地内に「城市足跡館(都市の歴史)」「城市未来館(都市の未来)」「城市人館(都市と人)」「城市生命館(都市の生活)」「城市地球館(都市と地球)」と5つあり(人、生命、地球はひとつの建物の中)、いずれも都市の万博を意識して「都市」を考えさせる仕組みを提示しています。愛知万博では、場所柄、漠然と「環境」を唱っていましたが、それよりもテーマが絞り込まれて分かりやすかった気がします。「中国館」では、中国そのもののアイデンティティを、他国と相対的に提示しようとする意図が明確なのに対して、これらの主題館は、「都市」を一般的に扱い、様々な都市を取り上げ、都市共通の課題を抽出しようとしています。

そこに展示されている内容は、建前が含まれているとはいえ、中国(政府)の都市に対する、過去から未来までの思考を読み取ることが出来ます。そして、総じて、都市の「多様性」が強調されている印象を受けました。例えば、城市未来館では、中国の丹山、ドイツのフライブルグ、タンザニアのダルエスサラーム、アメリカのサンディエゴ、オーストラリアのキャンベラのプランニングを紹介し、調和ある経済発展、自然エネルギー導入、都市衛生の向上、移民問題、インフラ整備など各地の課題をパラレルに見せ、各都市(各国)の特殊性と共通性が何となく見えてくるという見せ方をしています。城市生命館では、ガーナ、アメリカ、オーストラリア、オランダ、中国の家族(単身者も含め)がパラレルに登場し、やはり生活スタイルの差や共通点を浮き出させています。結論や、あるべき姿を強引に提示する、といった、これまでの中国にありがちなプレゼンスタイルは影を潜め、この多様な都市の在り方、有り様をそのまま見せるという見せ方は、一見、中国も大人になったなぁ、と感じさせるものがあります。しかし、気になるのは、ここで登場する人たちが、かなり受動的な都市的ライフスタイルに填ったように見せられていることです。政治的なスタンスが見えないこと、イスラム圏の生活者が殆ど登場しないことなど、いわゆるグローバリズムの流れに沿った「都市」が描かれ過ぎている気がします。つまり、グローバルスタンダードに平均的な「幸福感」が描出されている感が否めません。城市未来館で見せていた都市の差も、ひとつのリニアな流れの中での多様さという程度に解釈することも可能です。多様性の多様の許容度が限定されている、と思えなくもない。翻って、中国の国内が多様な人種・生活様式の差(格差)を抱え、大小のいざこざが耐えないと言われる現実に照らすと、特定の幅の中での多様性は大いに許容され得る、が、そこから逸脱するのは許されない、というメッセージにも見えます。つまり、画一的多様性を暗に誘導している、と。但し、こうしたスタンスは、中国だけが批判されることでも無く、欧米でもありがちなのも事実でしょう。

さて、パビリオンから外に出て、万博会場内を歩くと、中国の国内各地から来たとおぼしき、実に様々な人々がいます。それを少し観察するだけで、城市人館で見せられた人達より、よほどリアルな人の表情が見られます。そして、未だ未だ中国はグローバルな画一的多様性には程遠い、という光景が多々見られます。ベンチで寝転がる人、タンを吐く人、行列に横入りする人、禁煙と書かれたサインの前で一服する人、パビリオンの中での映画の上映中に大声で携帯で話す人、等々。自分の直ぐ横でやられると不愉快極まりないですが、少し端で見ている分には、微笑ましく、逞しくすら思えることもあります。良くも悪くもこの国は、未だ未だグローバル・スタンダードに侵されていません。彼らに政府のメッセージは届いているのかどうか。

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最後に、万博会場そのものの空間構成、プランニングについて。これも既に皆さん言ってましたが、その通り、かなりがっかり。万博会場は、閉会後を見越して、街の骨格が既に形成されています。いくつかのパビリオンと公園や高架橋などは、そのまま利用するとのことですが、特に新しい上海を予感させるコンセプトは見当たりません。都市デザインスケールでのランドスケープという思考も皆無に近い。普通の直線的な道路が格子状に続くのみ。しかもスケール感が巨大過ぎて、万博会場でなければ歩けるような空間にも思えない。機能的であるようにも見えません。パビリオンの配置のし易さと、その後の各ブロックの転用(転売)のし易さの表れと言えばそれまでですが、敢えて中国流と解釈すれば、主導的で網羅的なプラニングというものを指向することには最初から興味など無く、中国は常に、対処療法と、局部処方的な発想で、その時々を乗り切って行くのでしょうか。方向性を見せるのは、結果であって、先ではない。これを居直って言えてしまうところは、ある種の強みかもしれません。
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by mindscape-ltd | 2010-06-04 12:26 | 上海サンポ


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